西本願寺書院

法話


雑草のように、群がり生きる私たち 】

「教えは道筋ではなく目的そのもの」

 宗教とは教えを「宗(むね)」とすることで、「教え」とは、正しい道理を説いて、人々をさとし導いていくものです。また、「宗」とは「中心」ということですから、教えを人間生活の中心としていくことと言えます。

 現代では、多くの人が、自分の苦悩や、幸せになるにはどのような宗教が自分にふさわしいのか。その解決法を情報収集するような態度で宗教に触れています。しかしそれは情報の消費であって、へたをすれば次から次へと情報を取り込んだことで、かえって迷いを深めてしまうことにもなりかねません。教えを利用し、何かに至る道筋のように考えるのではなく、その教えそのものが私たちの行きつくところ、つまり目的そのものです。

 浄土真宗において、もし阿弥陀仏という仏が向こうにおられて、こちらに人間がいる。その阿弥陀仏と人間を結びつけるものがお念仏の教えであるなら、それは人間の要求でしかないのかもしれません。

「人間とは群がり生きる雑草のようなもの」

 親鸞聖人は「如来、諸有の群生を召喚したまふの勅命なり」とお示しくださいました。
「群生」とは「むらがりいきるもの」で、「もやし」のようなものです。植物の多くは太陽の方向に向かって伸びるのですが、もやしは光のないところで栽培しますので、一本一本がそれぞれ別の方向に生えます。それはまるで、なにを求め、何処へ向かうべきかもわからなず各々の価値観によって思い思いに生きている私たち一般大衆のことでもあります。

 私はこの世に生まれたからといって、歴史に名を残せるような存在ではありません。身近な者だけが気づかい合うささやかな生活を営んでいるだけです。たとえ名もなき雑草のような存在であったとしても、私にとっては二度と繰り返すことのできない人生です。だからこそ、辛くとも、苦しくともそこに尊い意味を見出そうと必死に生きているのです。阿弥陀さまは、「どのような人生であろうとあなたを浄土生まれさせ、さとりの身としてみせる」と私が求める前から願いを込めてよびかけてくださっているのです。言い換えれば、私は阿弥陀さまに願われた、さとりの身となる命を生きているのだと、人生の意味を与えてくださったのです。

 お念仏は人間の積み重ねた功績ではありません。むしろその積み上げた功績も知識もすべてが崩れて意味を持たなくなった時、自分自身にさえ見捨てられた自分を「大丈夫だよ」「決して見捨てない」という、阿弥陀さまそのものだったのです。

 親鸞聖人もまた、名もなき念仏者として雑草のように生きる人々の救われていく道を確認してくださいました。それはまさに私の救いを確認してくださったことでもあります。そのことを報恩講のご法縁を通してあらためて感謝し、たとえどんなつまずきにあっても阿弥陀さまに願われた浄土への人生への人生を精一杯歩ませていただきたいと思います。


 


大阪府誓覚寺住職 宮部 雅文 師 / 築地新報11月号・法話より転載 )

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