西本願寺書院

法話


【 親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ 】


 年賀状の新年を祝う詞は実に様々です。「 謹賀新年 」「 頌春 」「 迎春 」「 A Happy New Year 」・・・なかでも昔からの定番は、やはり「 明けましておめでとう 」でしょう。「 おめでとう 」を漢字で書くと「 お目出度う 」となり、この「 目出度い 」という言葉は、「 愛でる 」と「 甚し 」とが合わさった「 めでいたし 」を語源としており、それが転じた言葉のようです。本来は「 ほめたたえる程度が甚だしい 」という意味であり、そこから現在のように「 大変に喜ばしい 」時に用いられるようになったと考えられます。
 

 一休さんの愛称で親しまれてきた一休禅師(1394-1481)は、「 孫が生まれたので、めでたい言葉を書いてほしい 」と頼まれて、「 親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ 」と書いたとされます。驚いた顔をする相手に対して、「 これがめでたいことと喜べないのなら、逆さまの出来事が起こった時のことを想像してごらんなさい。人間が順番を間違えずに死ぬのは、当たり前のようで甚だ難しい。だから、これほどめでたいことはないのだよ 」と諭したという話は有名です。( *
仙厓のエピソードという説もあります )

 私の周りでも多くの人が順番通りでない死に遭遇し、心を痛め、やるせない涙に暮れています。命を考える上で、陥りやすいトリックがあります。それは、「 平均年齢 ー 実年齢 = 余命(余生)」という計算が頭の中で無意識になされているということです。ローソクに例えるならば、灯火を見ずに残りのローソクばかりを気にしながらの生命観と言えるでしょう。最初のうちは、「 まだまだ残りがある 」と安心しているのですが、一定の年齢を過ぎれば「 だんだん少なくなってきた 」と残りの心配をはじめ、センチメンタルな気持ちを抱くことになります。ところが、この計算には最も重要な要素が欠けているために、多くの場合に狂いが生じます。その要素こそが「 風 」です。どれだけ長くて立派なローソクが燃え盛っていても、肝心な灯火が風によって吹き消されてしまったならば、残りにはもう何の意味もありません。ローソクの灯火ならば、消えたとしても再び灯すことができますが、私たちのいのちは話が別です。

 一休禅師と同じ時代を生きた本願寺第八代宗主の蓮如上人(1415-1499)は、私たちが計算に入れていないこの風を『 御文章(白骨章)』の中で、「 無常の風 」と表現されています。この言葉は、残りのローソクばかりを気にしながら生きている私にローソクではなく、いま、この一瞬一瞬を眩いばかりに燃えている灯火を大切に見つめて生き抜く尊さを思い出させます。

 この人生はサッカーのアディショナルタイム(ロスタイム)のようなものかもしれません。カウントダウンは刻一刻と進んでいますが、いつ試合終了のホイッスルが鳴るのかを誰も知りません。こうして今日も生きている事実は、決して当たり前ではなく、とても不思議なことなのです。

合 掌


( 熊本県・良覚寺 / 吉村 隆真 師 / 築地新報1月号・法話より転載 )


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